兵庫・柳原 蛭子神社柳原のえべっさん

神社紹介

兵庫のまちは平安時代の昔から「大輪田泊」と呼ばれる良好な港のあるまちとして知られていました。平清盛の時代には、中国・宋との貿易の拠点として港の大改修工事が行なわれ、一時期は福原に都がおかれた事もあります。
後に兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれるようになり、海陸要衝の地として発展していきました。

蛭子神社は「兵庫津の道」「西国街道」という古い歴史を持つ柳原の中心に建立されています。元禄5年(1691年)、兵庫津の「寺社改帳」に神社のことが記されていることから、元禄以前から祀られていたことがわかります。

現在は「柳原のえべっさん」という愛称で親しまれ、毎年、1月9日〜11日の「十日えびす大祭」は商売繁盛や家内安全、学業成就を祈して多くの参拝者でにぎわいます。

鳥居

草葉達也の神戸神社紀行
「兵庫のえべっさん」- 兵庫柳原 蛭子神社 -

相撲の川柳で「一年を二十日で暮らすよい男」というのがある。これは江戸時代の人気力士が大名に気に入られて、一年の内のわずかな取り組みで、何の不自由もなく生活をしていたことを川柳にしたものと言われているが、それを言うなら「一年に三日で決める福の神」と言えるのがえべっさんだ。柳原の蛭子神社の井上優宮司にお話を聞くと、やはり「十日えびす大祭」が最大の行事で、もちろん他にも行事はあるが、地域の方が来られるような内容とのこと。やはり「十日えびす」の三日間に全集中なのだ。

私は兵庫区で育ったので、年明けの「十日えびす」は、必ず家族や大きくなってからは友達と来ていた。参拝の人たち皆が皆、商売人とか会社経営者では無いと思うが、やはり「福」と「金運」をいただくために、外せない年中行事になっている。私は耳たぶが人よりも大きいため、年寄りから「お兄ちゃん、福耳やな~ えべっさんみたいやな」と、触られたことが一度や二度ではない。「えべっさん」というあだ名がついたこともある。私はそれだけ「えべっさん」にはとても親近感を覚えるのだが、「えべっさん」の方からは、なかなかそうは思ってくれないようだ。

十日えびす大祭の境内(お昼)

「えびすさん」ではなく「えべっさん」なのだが、神戸では戦前から映画の殿堂として知られ、チャップリンやマリリンモンローも来館したことがある、神戸の新開地にあった聚楽館を「しゅうらっかん」と呼び、須磨水族園の前身であるの須磨水族館ことを「すいぞっかん」と呼んでいた。すでに関西では「えべっさん」という言葉は浸透しているが、もしかすると、この神戸柳原の蛭子神社が「えべっさん」という呼び名の始まりではないかと、ふと思った。

「えびす様」が親しみを込めて「えびすさん」と呼ばれるようになり、そして神戸で「えべっさん」になり関西各地に広まったのではと思う。もしそうであれば、私の研究として広めたい。きっとすでに発表されていると思うが……

この神社紀行を書くために柳原の蛭子神社に参拝した。私自身も今回は「十日えびす」以外の参拝は初めてで、いつもはJR兵庫駅から綿菓子やベビーカステラの匂いと、楽しそうな親子連れ、そして縁起物の福笹や飾りが沢山付いた熊手を持った人たちで賑わう道を、人をかき分けて本殿にたどり着くのだが、この日はスイスイと歩いてたどり着き、「こんなに近かったかな?」と驚いてしまった。普段は近所の人や、御朱印やお守りをいただく方が参拝に来るという感じで、私の知る物凄く人が集まる「十日えびす」はそこにはなく、逆にシーンとした境内は私にとっては霊験あらたかに感じた。ただ目を閉じると、子供の楽しそうな顔や、福を持ち帰る力に満ち溢れた大人たちが顔見える。あの賑やかな「えべっさん」の光景が蘇ってくるのだ。いつまでもこの柳原の蛭子神社を愛し、「十日えびす」を楽しむ日本人の一人でありたいと思った。

十日えびす大祭の境内(夜)

※聚楽館(しゅうらくかん・じゅらくかん):豊臣秀吉の栄華の象徴の象徴として建てられた、贅を尽くした幻の城である聚楽第から名付けられたとされる。

草葉達也氏

草葉達也氏(くさばたつや)1963年 神戸生まれ
作家 / エッセイスト 日本ペンクラブ会員
阪南大学国際コミュニケーション学部講師
宝塚歌劇史歴史研究家 大阪大学文学部文学研究科

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