兵庫・柳原 蛭子神社柳原のえべっさん

神社紹介

七福神・七辨天めぐり

兵庫七福神

江戸時代、庶民の間で大ブームとなった七福神めぐり。福を呼ぶ神様7カ所を巡礼する事で、「七難即滅・七福即生」、つまり7つの災いから逃れ、7つの福徳が授かるといわれています。訪れた寺社で福絵馬や朱印を集める風習は江戸時代からあり、身近な娯楽としても大いに親しまれたようです。

古くから港町として栄えた兵庫津は、西国街道の要所でもあり、陸路や海路を通じてたくさんの神様がここに集まったといわれています。兵庫七福神めぐりは、多くの人々によって昔々から受け継がれてきた、幸福祈願のかたちといえるでしょう。
幸福を願う気持ちは今も昔も同じ。福運と御利益を求めて、兵庫七福神めぐりに出かけてみましょう!

蛭子


蛭子神社(ひるこじんじゃ)

商売繁盛の神様として名高い蛭子。手に持っている鯛と釣りざおがシンボルで、漁業や海の安全の神様としても信仰を集めている。ここ兵庫の蛭子神社は「柳原のえべっさん」として古くからしたしまれていまれ、毎年1月9日の十日えびす祭では、40万人物参拝客で大いににぎわう。鳥居のわきには蛭子の石像も建立されているので、お見逃しなく。またかつて西国街道の兵庫の西の入り口であったことから、神社の北側には「柳原惣門跡の碑」が残っている。

大黒天


福海寺(ふくかいじ)

もともとは「マハーカーラ」というヒンドゥー教の神様。日本では開運招福の神様として進行されている。手に持つ打ち出の小槌は金銀財宝を分け与えるもので、米俵に乗っていることから食料や台所の神様としても親しまれている。足利尊氏がひらいた福海寺には、インドを起源とする全身真っ黒な大黒天像と打ち出の小槌を携えた大黒さんの双方がまつられる。蛭子神社に隣接しており、十日えびすに合わせて、大黒祭が行われる。境内にある平清盛ゆかりの「時雨の松」の碑も見ておこう。

布袋


天神社(てんじんじゃ)

布袋さんのモデルは、中国唐代に実在した高徳の僧。大きな袋をいつも抱え、喜捨を求め歩いたといわれる。人々の尊敬を集めるとともに、でっぷりと堂々たる体格、福々しい容ぼうから、円満福運の神様とされる。天神社は「柳原の天神さん」とも呼ばれ、太宰府に流される途中に菅原道真が和田岬に立ち寄ったことに由来する。もちろん、学問の神様としてもご利益があるので、学生や受験生はぜひとも立ち寄りたい。境内に設置されたユーモラスな七福神の石像も、お見逃し無く。

毘沙門天


能福寺(のうふくじ)

見るからに勇ましい毘沙門天は、仏を守る軍神であり、正義の味方となってくれる善の神。インド神話では財宝を守るとされる。この能福寺の見どころは、何といっても兵庫大仏。奈良・鎌倉と並び日本三大仏のひとつに数えられ、堂々たるたたずまいだ。光の具合によって表情は変わるが、やはり秋の夕暮れ時が格段に美しい。平清盛がこの寺で出家した由来から平清盛廟があるほか、境内には神戸事件で切腹した滝善三郎の碑など、兵庫の歴史の足跡がたくさん残っている。

福禄寿


真光寺(しんこうじ)

長く伸びた頭とひげ。福禄寿は、中国では南極星の化身とされる。幸運・長寿の神で生活に安定をもたらす。真光寺は、鎌倉時代に時宗を開いた一遍上人のお墓があることでも名高い。全国津々浦々を説き歩いて念仏信仰を広めた一遍は、遊行の途上、この兵庫の地で51年の生涯をとじた。ゆったりとした境内の一角に設けられた墓と五輪塔は件の文化財に指定されている。また、真光寺北側の須佐野公園は、七福神めぐりの休憩ポイントにぴったり。

寿老人


薬仙寺(やくせんじ)

長寿延命の神様として信仰される寿老人は、中国・宋代の人。杖を携え、鹿を連れて現れるといわれている。奈良時代、行基によって開かれたという薬仙寺。「病封じの薬師さん」といわれ、健康の守り神として親しまれている。毎年8月8日・9日の四万六千日法要でご開帳される本尊の薬師如来像は国指定重要文化財。兵庫でも屈指の古寺だけに、歴史には事欠かない。後醍醐天皇に献上した霊泉、平清盛が後白河天皇を幽閉したという萱の御所跡の碑なども見ておこう。

弁財天


和田神社(わだじんじゃ)

七福神の中では唯一の女神で、インドでは河の神。琵琶を携えた姿で描かれるところから、音楽・学問の守護神であり、福徳材運の神といわれる。かつては、白砂青松に彩られた神戸随一の景勝地にあった和田神社。明治時代、造船所ができたため現在地に移転した。大きな鳥居が目印で、緑あふれる境内は風情がある。敷地の一角に立つ立派な石碑は、幕末から明治にかけて活躍した神田兵右衛門を顕彰するもの。兵右衛門は新川運河の開削、神戸でもっとも古い学校「明親館」の解説などに情熱を燃やした。

清盛七辨天

兵庫の港は、大輪田の泊と呼ばれた昔から天然の良港として知られ、平清盛はこれを改良し、更に便利な港として外国との貿易を盛んにし、我が国の経済の発展を図ろうと兵庫に築島(経ヶ島)を築きました。
承安4年(1180年)に清盛は安芸国の厳島神社勧請し、このとき宮島にある七つの海岸にちなみ、兵庫に七つの辨財天をお祀りしたのがはじまりです。

あんぜんべんてん


和田神社(和田宮)

元は、現在地から西南に約800mの海岸にあり「蛭子の森」と呼ばれていました。平清盛が大輪田の泊修築の際、事業の無事と将来の繁栄を祈願し安芸の宮島より市柿嶋姫大神を勧請しました。その後、南浜総氏神と広く人々に親しまれ、隣松院と呼ばれた社務所には、西国大名や勝海舟などが訪れました。

おんがくべんてん


真光寺

時宗の開祖、一遍上人が亡くなったところに建立された寺です。境内の左手に一遍上人の廟所があり、五輪塔は県の重要文化財に指定されています。一遍上人は鎌倉時代の時宗(じしゅう)の開祖で、正応2年(1289年)8月23日にこの地の観音堂にて51才で亡くなりました。一遍上人は『おどり念仏』と呼ばれる独特の布教方法により、全国を遍歴したことで有名です。また、この寺には重要文化財の『紙本著色遊行縁起(詞行顕筆)』があり、『一遍上人廟』は兵庫県の指定史跡文化財になっています。時宗でも格式のある寺がこの兵庫区にあります。

清盛くん


能福寺

唐留学の帰途和田岬に上陸した伝教大師が自作の薬師如来(本尊・秘仏)を安置し、我国最初の教化霊場としました。境内には、奈良、鎌倉に並ぶ日本三大仏の一つ兵庫大仏があります。昭和19年の金属回収により国へ供出しましたが、関係者の努力により、平成3年に再建されました。

松王丸くん


来迎寺

平清盛が経ヶ島築造をする際、幾度かの暴風雨と大波に見舞われた大変な難工事でした。清盛は旅人を人柱にし、海神の怒りをなだめようとしましたが、17才の松王丸が代わりに自分が人柱になると願い出て、経文を記した石と共に沈みました。「松王小児入海」の碑と墓が残されています。

べんきょうべんてん


済鱗寺

明応2年(1493年)真誉林光上人の開祖「西連寺」と号していました。海中より出現の阿弥陀仏を本尊とし、魚類済度を合わせ行ったため、済鱗寺と改めました。その後五百羅漢像を建立するも先の大戦により本堂以下全てを消失し、現在は仮の本堂に阿弥陀仏像をお祀りしています。

うんどうべんてん


恵林寺

貞和2年(1346年)錦江省文禅師により開山された臨済宗のお寺で、福原西国三十三ヶ所の第二十八番札所です。境内には、平清盛が経ヶ島築造の際に困難や水難克服を祈願して立てられた弁財天社があり、「波除(なみよけ)の弁天」と呼ばれていました。

おしゃれべんてん


兵庫厳島神社

この付近は、昔「渦輪」と呼ばれた湊川の旧川筋にあたり、さらに地下水も湧き出して渕のようになっていたといわれています。清盛が兵庫津発展のためにこの神社を建立したといわれています。また、清盛ゆかりの「外弁天」と伝えられています。2月8日には毎年針供養にたくさんの人が訪れます。

れんあいべんてん


氷室神社

日本書紀によると今から1600年ほど前、仁徳天皇の異母兄・額田大仲彦は、この地に狩りをしていた時、穴倉を見つけました。村長に「冬に取った氷を萱草で包んでおくと、夏になってもこの氷を使える」と聞き、天皇に献上したところ、たいそう喜ばれたことからこの地に仁徳天皇を祀って創建されました。

けんこうべんてん


花隈厳島神社

もとは宇治川の左岸にありましたが、明治の初年に神戸港の建設により、神戸市中央区栄町通に移り、昭和22年神戸中央郵便局の開局のため、現在の花隈町に鎮座しました。宇治川と国道2号線の交わるあたりが、弁天町となっているのは神社があった名残りからです。鳥居には『神戸最初船場鎮守』と額が揚げられています。境内には住広稲荷社、出雲神社、地清女社、白龍さんが祀られています。

七福神・七辨天めぐりマップ

兵庫七福神に清盛七辨天の寺社をめぐるコースが加わり、寺社の数も16となり、とても一日では回りきれない楽しさです。自由にコースを設定して楽しんで下さい。

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